『1Q84(村上春樹著)』Book 1を読み終えて
June 21, 2009
先月末に手に入れて、やっとBook1が読み終わった。
長く楽しみたいと思い、『1日1章以上読まない』という誓いをTwitterでたてた。
1章の長さが、布団で寝る前に読むのに丁度いい長さで、その上、2つの話が1章ごとに交互に展開(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のように)しているので区切りがつけやすく、ある程度、その誓いは守れた。
それでも(徐々に2つの話が絡まっていき、物語が深みをましてくるのを前にして)自制心を最後まで保つのは難しく、終盤は何章かをまとめて読んだ。
Book2でも『1日1章以上読まない』でいられるかと言うと、無理だという予感がはっきりとある。
食べすすめているうちに、パスタとソースがうまく絡み合ってきたカルボナーラを、つぎつぎと口に運ぶことは、僕にはどうにも避けられないことのように思う。
ときどき、ハウツー本は読むけど、小説はまったく読まない、あるいは、読んでもミステリーだけと言う人がいる。
そう言う人にとって物語とは、『読むのに時間がかかるし、何を言いたいのかわからない』、つまり、『労多くて、益少なし』といった存在なんだろう。
ハウツー本の、要点だけを述べて結論づけをつぎつぎと行って、『ある方向』に話を持っていこうとする文章ばかりを読んでいると、あるルールさえ守っていれば物事は正確に『あるべき方向』に導かれるような気がしてくる。
でも実際は、その通りにすんなりいくわけではない。
そこに書いてあるように、簡単に組織がまとまるわけでもなく、容易に次のビジネスチャンスが見つかるわけでもない。
人は、ルールを守るつもりでいても、シンデレラのように約束の12時の鐘を迎えてしまったり、どこかの木こりのように金の斧を落としたと言ってしまうものなのだ。
物語はフィクションを通して、人間の心はなかなか思い通りに操れないのだということを、遠回しな言葉で読者に耳打ちする。
ときにハウツー本より物語、小説の方にリアリティや真実を感じるのは、こういう人間の弱さ、ちょっとしたボタンの掛け違いを(時として残酷なほどに)含んでいるからだと思う。
物語や小説を『労多くて、益少なし』と思っている人に、その魅力を伝えるのは難しい。人間の心を思い通りに操れないことなんて、多くの人間が知っていることだ、と言われてしまえば、そうかもしれない、としか言えない。
『1Q84』に、小説(物語)の魅力をうまく伝えている文章があったので、引用する。
物語の森では、どれだけものごとの関連性が明らかになったところで、明快な解答が与えられることはまずない。そこが数学との違いだ。物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題をべつのかたちに置き換えることである。そしてその移動の質や方向性によって、解答のあり方が物語的に示唆される。天吾はその示唆を手に、現実の世界に戻ってくる。それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。そんな可能性が彼の心を、奥の方からじんわりと温めてくれる。
『奥の方からじんわりと温めてくれる』
確かに。
それを求めて、小説を読んでいる。
この言葉は、小説の魅力はなにかと訊かれたときの解答として、しっくりくる。
さてさて、今晩からBook2。
......それを読み終わったら、過去の作品を読み返そうと思っている。
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