太宰治に感じたこと、感じること
June 19, 2009

2009年6月19日。太宰治生誕100年と、あちらこちらで目にした日だ。
こういう日に、少し振り返って、太宰治が僕になにを与え、なにを奪ったのか、考えてみるのもいいかもしれない。
僕が最初に太宰作品を読んだのは、中学(高校じゃなかった、と思う)の国語の教科書に載っていた『走れメロス』だった。
授業では取り上げなかったように思う。
国語の教科書を読むのが好きだったので、自然と読んだ、出会いはそんなものだったと記憶している。
「友情」がどうとかって話で、ひどくうさん臭く感じた。
それ以来、しばらく太宰から遠ざかっていた。
何年かして『人間失格』を読み、最初に出会ったのがこの作品だったら、中学時代の僕はもっと救われただろう、と思った。
教科書に『走れメロス』を掲載することにした、役人だかが恨めしかった。
それでも幸いだったのは、きちんと太宰作品を読んだのが、10代だったことだ。
今頃になって、はじめて太宰作品を読んでいたとしても、単なる小説、それ以上のものにはならなかったかもしれないのだ。
できるだけ、脂肪のない心で読むことが、太宰を自分の生きる手助けにする最良の方法であるように思う。
当時、10代後半から20代前半に、繰り返し、いろんな作品を読んでいた頃というのは、それなりに寂しい気持ちを持ち合わせてはいたものの、どこかにそれさえ笑い飛ばせる、無知なるが故の強さがあった。
それだからこそ、太宰のリズミカルで明るく、ユーモアを含んだ文章が、なにかを跳ね返す力となったのだろう。
太宰作品が僕に与えたのは、苦しくても、ユーモアで笑い飛ばす、そんなことの大切さに気が付かせてくれたことじゃないだろうか。
反対に僕から奪いさったもの。
それは骨太な根性を持つこと。
太宰作品が軟弱な文学であることは否めない。
受け付けない人がいるというのも理解できる。
でも多くの虜がいることからも、たくさんの人が、その「軟弱さ」にほっとしてしまうのも確かなんだろう。
人間には絶望という事はあり得ない。人間は、しばしば希望にあざむかれるが、しかし、また「絶望」という観念にも同様にあざむかれる事がある。(『パンドラの匣』より)
たくさんの絶望がいま街を染めているのなら、太宰作品の出番かもしれない。
うまくいけば、読んだ人は、絶望のなかにある望みを、見つけることができるんじゃないだろうか。
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