少数派であることを怖れない(『ニュースキャスター』筑紫哲也様)
November 12, 2008
News 23を一時期よくみていた。
20歳くらいのときだ。
目当ては筑紫哲也さんの『多事争論』だった。
昨日、TBSの追悼番組で『多事争論』には原稿らしい原稿がなかったことを知った。
難しいテーマであっても、不思議とチャンネルをまわす気にならないのが『多事争論』だった。
原稿の棒読みでなく、そのときそのときの生の言葉だったからかもしれない。
ほかのニュース番組をみているときは、「テレビ」と「視聴者」の関係でしかない。それが、筑紫さんの場合だと、より深い、「語り手」と「聞き手」の関係を持つことができていたのではないか。
もちろん、僕が夢中になった理由はそれだけじゃない。
20歳前後といえば、就職をする頃だ。社会の持つ欺瞞に気づきながらも、足を踏み入れなければならない、そんな葛藤を抱えていた時期だった。
筑紫さんは社会の嘘をはっきり嘘と口にしている、当時そう感じていたと思う。
そこが僕の心を捉えたのだ。
「権力の監視」
追悼番組のなかで出てきた言葉だ。
筑紫さんは、メディアの役割を「権力の監視」だと考えていたようだ。
「少数派であることを怖れない」
そんな言葉も紹介されていた。
無差別に襲う犯罪が目立つ。
犯人像は「少数派」であるように僕には映る。
いまは個人が発言するのに便利なツールが一杯ある。
筑紫さんがそうしてきたように、「少数派」はまず言葉で語るところからはじめなきゃいけないんだと思う。
うちに筑紫さんの著書がある。
『ニュースキャスター』という本だ。
一度読んだけれど、内容は忘れてしまっている。
今日から読み返している。
筑紫さんは「人類最大の発明はなにか」という問いに、「音楽(12音階)」ではないかと述べている。
少し長いけれど、引用する。
異なる地の異なる人たちが互いにどんな音楽でも演奏でき、聴くことが容易になった。いましきりにいわれている世界化(グローバリゼーション)をとっくの昔に成し遂げていたことになるが、それに伴う暴虐もまた不可避だった。わずか12音階などという単純な音階の音楽を持っていたのは世界の少数派に過ぎなかったのに、世界はそれに馴らされていったからである。その一方で、どんなに科学技術が発達して、便利になろうとも、この世に音楽が溢れていなかったら、それは何とつまらない世界だろうと思う。
「少数派」という言葉がここにも出てくる。
「12音階」がそうであったように、「少数派」が世界を動かす可能性を持つと、筑紫さんは信じていたのだと思う。
また、本のなかで21世紀について、つぎのように述べている。
情報や遺伝子を中心に科学技術が恐ろしいほどのスピードで進むだろうが、その一方で自然の持つ価値が大きく見直されるだろう。いずれにしろ、これ以上、自然破壊を続けたら人類は生きていけない。人類が滅びれば地球は生き残る。
僕は世界に広がる「景気後退」は人類があり方を変える機会なんじゃないかとこの頃思う。
僕ら人類の生活は「経済」に牛耳られている。
組織も個人も「経済」的に成長することが生きる目的のようになっている。
でも、野放しにしているとひたすら「消費」し続ける僕ら人類を最終的に司るのは「自然」にほかならない。
「景気後退」が進めば、買い控えが起きる。厳選して買うようになるし、故障したものは直そうという気にもなる。
「経済」で考えると、失業者の増加が予想され、悪い話でしかない。
これが「自然」にとってはどうかというと、無駄な消費が減ることは、良い話だ。
『多事争論』をWebで見ることができる。
8月1日の『多事争論』で、「この国はガン」だと筑紫さんは語る。
なぜガンか。
「本来使うべき栄養を良くする方向に使えない状態」ということでガンと述べている。
この国だけじゃなく、世界全体がそういう状態に向かっているのかな、と思った。
政治とはなにか。
政治はシンプルだと筑紫さんは述べている。
「若い世代のためにどれくらいお金を使うか」
「高齢者のためにどれくらいお金を使うか」
その配分の争いが政治なんだと。
いまはどちらに向いていない。
いま向かうべきなのは「若い世代のため」に自然を残す、そんな方向しかあり得ないんじゃないか、最後の『多事争論』をみて、思った。
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