『どうにかなる』と『どうにもならない』の狭間で(太宰治『葉』『玩具』)
March 20, 2008
『葉』は、太宰治の最初の作品集『晩年』の巻頭に置かれた短編だ。
太宰治が過去に書いた文章を切り貼りして、ひとつの作品として構成したもので、本格的な小説というよりは長い詩を読んでいるような感じがする。
そう感じさせるひとつは、『葉』がヴェルレエヌの詩の引用からはじまるからかもしれない。
撰ばれてあることの
恍惚と不安と
二つわれにあり
これを巻頭の作品の第一行にもってきたのは、太宰治の強烈な自負の現れである。
でも『葉』の本当の良さは、ユーモアに溢れているところ。次の一文は『葉』のなかでもっとも好きな箇所だ。
『生まれてはじめて算術の教科書を手にした。(中略)やがて、巻末のペエジにすべての解答が記されているのを発見した。少年は眉をひそめて呟いたのである。「無礼だなあ」(引用)』
世の中の仕組みは少年期にも十分知ることができる。教育とは、僕たちをこうしたペテンに慣れさせるためのものなのかもしれない。これを最初に読んだとき、教科書にこの一文が載っていたら学校教育も捨てたものじゃないのにな、と思ったのを覚えている。
太宰が『葉』でやろうとしていたことは、敬愛する芥川龍之介が晩年に好んで発表したアフォリズムの類いだったのかもしれない。けれども芥川の文章にあるような鋭さはない。文章はもっと柔らかで、取り上げているテーマも自分自身の境遇に向けられたことが多い。
『葉』の最後に次のような詩が置かれている。
『よい仕事をしたあとで/一杯のお茶をすする/お茶のあぶくに/きれいな私の顔がいくつも/いくつも/うつっているのさ/どうにか、なる。(引用)』
同じ作品集のなかに収められた短編小説『玩具』のはじまりはこうだ。
『どうにかなる。どうにかなろうと一日一日を迎えてそのまま送っていって暮らしているのであるが、それでも、なんとしても、どうにもならなくなってしまう場合がある(引用)』
『どうにかなる』と『どうにもならない』の狭間で揺れながら書いた文章が、普遍的な人の迷いそのままを代弁するものであることから、良質のポップソングがいつ聴いても琴線に触れるように、僕たちの気持ちを今よりずっと繊細な感受性を持ち合わせていた頃にふと帰らせてくれるのかもしれない。
ついでに、『玩具』で一番気に入っている箇所について引用しよう。
『ものの名前というものは、それがふさわしい名前であるなら、よし聞かずとも、ひとりでに判って来るものだ。私は、私の皮膚から聞いた。(中略)いくど聞いても、どうしても呑みこめなかった名前もある。たとえば、ヒト(引用)』
太宰治が小説を書く理由。それは『ヒト』を理解し、受け入れるためだったようにも思う。自分という『ヒト』、そして他者という『ヒト』、その両方の持つ善悪すべてを。
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