『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んで
November 25, 2007
この本は小説ではない。エッセイだ。僕が村上作品の小説に求めているのは、現実を抽象化して寓話のように仕上げている点だと思う。
イソップの話や宮沢賢治の作品からなんらかの示唆を得るように、僕は村上作品から決して直接的ではないけれどもなんらかの示唆を受け取る。そして受け入れようと思う、目の前のあれこれを。
単刀直入に言って、このエッセイはそうしたたぐいのものではない。抽象化されず、現実とひたすら向き合うための文章のように思う。
なぜ走り続けるのか? その答えは次のような文章からうかがい知ることができる(最終的な言葉として、なぜ走り続けるか、その結論は『生まれつきの性格』としているが)。
『サマセット・モームは「どんな髭剃りにも哲学がある」と書いてある。どんなにつまらないことでも、日々続けていれば、そこには何かしらの観照のようなものが生まれるということなのだろう。僕もモーム氏の説に心から賛同したい(引用)』
『僕はもちろんたいしたランナーではない。(中略)しかしそれはまったく重要な問題ではない。昨日の自分をわずかにでも乗り越えていくこと、それが重要なのだ(引用)』
あるいは、『同じ十年でも、ぼんやりと生きる十年よりは、しっかりと目的を持って、生き生きと生きる十年の方が当然のことながら遥かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている(引用)』
このように、いくらか小説より直接的な言葉で、きわめて現実的な行為である『走ること』について書いた作品ながら、当然と言えばそれまでなのだが、小説にしばしば登場する独特の言い回しが、このエッセイにも登場する。
『疲弊していることが、いわば「常態」として僕の中に自然に受け入れられていった、ということかもしれない。一時は沸き立っていた筋肉の革命議会も、今ある状態についていちいち苦情を申し立てることをあきらめたようだった。もう誰もテーブルを叩かず、誰もコップを投げなかった(引用)』
『「暑いさなか、あんなに一生懸命練習したんじゃないか。これくらいのタイムで走れなきゃ意味ないぜ。男だろう、やってみろや」とそれは僕に耳打ちをしていた。通学路でピノキオに誘惑の声をかける、こずるい猫とキツネのように(引用)』
思わず笑ってしまう表現の数々、エッセイを読んで改めて、ストーリーだけでなく村上作品の文章そのものにも惹かれていたのだと気がついた。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公は『ときどきは笑うことのできる本』が好きと語るが、よく考えてみるとなかなかそういった本にお目にかかれるものではない。
でもこの作品を読んで一番大切だと思ったのは次の一文だ。
『当たり前の話だが、誤解されたり非難されたりするのは、決して愉快な出来事ではない。そのせいで心が深く傷つくこともある。これはつらい体験だ。しかし年齢をかさねるにつれて、そのようなつらさや傷は人生にとってある程度必要なことなのだと、少しずつ認識できるようになった。考えてみれば、他人といくらかなりとも異なっているからこそ、人は自分というものを立ち上げ、自立したものとして保っていくことができるのだ(引用)』
結局、なにかしらの代償が必要になるということだと思う。はたから見て、マイペースにいかにも自分らしく行動している人をうらやましく思うときもあるけれど、きっとその人たちだって代償を支払っているのだと思う。そういうマイナス部分含め、どういうスタンスで残りの人生を歩むのか、決めていく必要があると思った。
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